余計なひと言

何かを主張・発信するには、思慮と戦法が必要だとごくあたりまえのことを前回書いた。

と言いながら、私自身も余計なひと言や迂闊な言葉選びで失敗することは少なくない。

が、そんな自分を棚に上げるようで恐縮だが、メディアやそのメディアに取り上げられがちな人たちの言葉選び・余計なひと言に呆れ果てることが以前に比べて本当に多くなったように思う。

 

そんなこと挙げたらキリがないのだけれど、昨日見聞きした「余計なひと言」。

「この10万人の声は重い」自民党議員によるLGBT差別発言、撤回と謝罪を求める署名を手渡す(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース

 

「人間は生物学上、種の保存をしなければならず」これは私も人間に限らず生物は皆そうだと思う。客観的事実だ。

が、「LGBTはそれに背くもの」どうしてこんな余計なこと言うのかね?

これLGBTうんぬんでなくお子さんを持てない・持たない人含めてまるで反社会的と言わんばかり、そりゃ差別発言だと言われて仕方がない。

「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとかが、起きている」のは事実で賛否あろう。が、「ばかげたこと」って言うのは余計だ。そりゃ反感も買うだろう。

 

どうして普通に議論できないのか?政治家たるもの言葉選びに慎重になれないものか?

また、当件には当てはまらないようだが、メディアの「言葉の切り取り」もよく問題視される。これについては今日はこれ以上書かないが、もうちょっと知性と公平性をもった言葉選びと報道をお願いしたいものだ。

 

 

 

主張の仕方

前回のブログでは、LGBTの方の訴訟を例に「これはLGBTの方の主張・意見として多く共感が得られるものなのであろうか?」という違和感を書いた。

あたりまえの話だが、LGBTだろうが障害者だろうが外国人だろうが健常者だろうが、何かしらのくくりで人を呼んでも、そのくくりの人たちの意見や考えはそれぞれ千差万別だ。

しかしながら、世の中ついついあるくくりで語られがちだし、そのくくりの人たちにある種の共通点が見られることも少なくないだろうから、偏見や思い込みが生まれるのもある程度はいたしかたない面もあろう。

であるからこそ、特にマイノリティの人たちは一つの言動で余計に偏見を生んでしまうリスクが高いように思うし、前回のブログでもどうなのだろう?と問題提起のつもりで疑問を呈した。

 

さて、「じゃ、障害者はどうなのよ?」と言われそうだなと勝手に思ったので、もう少し古くなったが、先日話題になった伊是名夏子さんという方のブログに批判の声が多く上がった件について、一言私の感想を書いておこうと思う。

 

JRで車いすは乗車拒否されました : コラムニスト伊是名夏子ブログ

 

騒動の詳細はあちこちに書かれているので、あえてここでは書かずにおく。

私の意見は単純。

伊是名さんの嘆き・思いの根幹的な部分には共感できるが、発信の仕方には共感・賛成できないということだ。

嘆き・思いの根幹的な部分というのは、障害者、特に車イスやある種の装置が必要な人間は公共の交通機関や施設すら利用できないことがあり、利用できても多くの時間や手間を要し大変な苦労が多いということへの嘆き、そしてそういうバリアは一日も早く少しずつ減少してほしい!という思いだ。これはまったくもって同意共感できる。

が、それを「乗車拒否だ!」と訴えることには私は共感できない。

事前に調べられることは調べて、乗車30分前には現場で相談して、と出来る手間はきちんとこなされたのもわかるし、ご苦労があったのもわかる。

駅員の対応に疑問を感じる点もあったのかとは思うけれど、結果希望した駅を利用できたのだから、拒否されたと強い言葉で訴えるのではなく、ご自身の苦労を伝えた上で、対応した駅員への感謝の言葉とともに、例えばHP上の駅の情報の充実や障害者への案内の更なる明確化等具体的な提案をすれば、伊是名さんの苦労と主張を否定されるようなことはなかったのでは?と思う次第。

 

何度も言うがマイノリティは我慢するのが当然だなどと言う気はさらさらない。

ただ、なんであれ主張の仕方を間違えるといらぬ偏見や反感を生むのも事実なので、世の中をより多くの人にとって快適にするためには、それなりの思慮と戦法が必要だと思うのだ。

 

でもあらためて言っておく。エレベーター、多目的トイレ、車イス用駐車場等それらの物理的制限・バリアを減らすための公的努力を間違った使い方で台無しにするような輩は私は許さんよ。

 

 

普通とは?私は差別主義者か?

さてさて、ブログをコマメに書くということがなかなか大変とあらためて思い知る今日この頃。書きたいことはたくさんあるのですが、、

 

で、書きたいと思っていたテーマの一つがLGBTとその周辺についてです。

私のブログ読者はまだほぼいない(それでも何十件か見てくださった方がいる痕跡に感謝しております。)ので、炎上しようもないけれど炎上覚悟で書きたいというか知りたいテーマのひとつ。

ただそのテーマに入る前に、まず最初に「普通とは何か?」というよくあるテーマについて確認しておきたい。

私の理解ではシンプルに「普通=マジョリティ」です。単に多数派。

なので、「あなたは普通じゃない」「あなたは異常だ」とかいう言い方をされるとなんか自分がとんでもなく反社会的な人なのかと悪く聞こえていい気分はしないけれど、私は私が身体に障害を抱えていることはマイノリティであり、「普通ではない」「(身体に)異常がある」と自覚しているので、まぁ、それほど腹も立たない。

車イスに乗っている人間なんてお年寄りも含めればマイノリティ、マイノリティと言うほど珍しくもなんともないと思うが、例えば曲がり角やエレベータで車イスに乗った私と出会うと一瞬驚いたような表情をされる方も多いし、何かしてやらんといかんのかな?というようなありがたい困った顔をされる方も多い。で、私はそれはまぁ自然なことだと思う。

店や電車などでいかにも「邪魔だな」と迷惑そうな顔をされたり、不愉快な思いをすることもあるが、その人間が私に何か言ったり、したりしてこない限りは特にこちらから文句を言う気もない。なんせ私は彼らにとって非日常だから、何らかの反応があるのは自然と言えば自然だ。

前置きが長くなった。LGBTとその周辺について、私の不勉強もあると思うが、最近違和感を感じることのひとつは、まるで自分たちがマジョリティであるかのような主張振る舞いが過ぎないだろうかということだ。

誤解しないでもらいたいがマイノリティだから差別されてもしかたないなどマイノリティの私はこれっぽっちも思っていないし、差別には私も断固立ち向かうつもりだ。

今日、常々私がどうなんだろう?と思っていたことがニュースになっていた。

 

性同一性障害職員のトイレ使用訴訟、二審で逆転敗訴 制限の違法性認めず

 

私はこれはいたしかたない判決だと思うのだ。

戸籍上も身体上も男性の人間がご自身の性自認を理由に女性用トイレを使用することはその女性用トイレを使用する戸籍上も身体上も女性つまりマジョリティにある種の苦痛と忍耐を強いることになるわけだ。

もちろんこの性同一障害の方も男性トイレを使用することにある種の苦痛を伴うのでしょう。それは気の毒だとは思う。

しかしながら、これは名古屋城のエレベーターの話でも書いたが、残念ながらマイノリティが受け入れざるを得ない最小限のバリアだと思うのだ。

マイノリティは我慢をすることが当然か?と言われるともちろん誰も何も我慢しないのが理想だが、マジョリティが我慢することもこれまた当然ではないわけだ。

ましてこの記事を見る限り、離れたフロアの女性用トイレの使用は認められているとのことなので、それが妥当かどうか私にはよくわからないが、この職場は誰かが一方的に100%苦痛・不便を強いるようなことにならない配慮もしているわけだ。

 

もちろんこの原告の方の見解がすべてのLGBTの代表的意見というわけはないのだけれど、こういった記事を見るとこれってLGBTの方たちへの偏見等をなくすことにプラスなのだろうか?むしろ逆では?このLGBTの方のことを少々横暴だな、と思う私はやはり「差別主義者」ということになるのだろうか?

 

 

 

 

 

コロナ

さてコロナの話

もう多くの人がいろいろなことにうんざりしていることと思う。私もその一人。

私がうんざりしているのは、

  1. とにかく1年以上収束してくれないこの状況にうんざり
  2. 結局何が正解かよくわからないまま繰り返される報道やネット情報にうんざり

が主な点だが少なくない人たちが共感してくださるのではないだろうか。

コロナについてはとにかくその感染病対策の観点と経済活動の維持、この2点で語られるが、それぞれの専門家があれこれコメントされるのは当然のことながら、いずれの専門家とも思えない人まで専門家よろしくあれこれデータを並べコメントされ、私のようにテレビやネットでニュースを見ているだけの非専門家はお腹いっぱい状態ではなかろうか?

私が見る限り最近の変化として、コロナ禍当初よく見られた「コロナはただの風邪程度」「PCR検査を増やすことは避けるべき」というコメントを見かけなくなった。

もちろんそれはあなたが見ているテレビがそういう偏った報道をしているのだというご意見もあろうけれど、私はおそらく大勢の人がそうであるように朝晩にテレビのニュースを見たり、一日に何回かネットの情報をチェックして生活するというおそらく普通の生活をしているつもりなので、そう珍しい存在ではないと思われる。

で、まぁ、とにかくいろんなことをいろんなデータ並べていう人がいるわけです。

数日前も高橋洋一という内閣官房参与の経済学者が日本の現在を「さざなみ」と表現し、「これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイートしたことで炎上していたが、私なんかは素朴な疑問として、そもそも日本は検査率が低いと言われているのに感染者が膨大な国と比較して大きい小さい言うことにどれほどの意味があるのだろう?と疑問に思うし、貴方感染症の専門家ですか?と訊きたくなる。

また、これでオリンピックを中止したら世界に笑われるという意味の主張なのだそうだが、今オリンピックを中止なり延期するという選択肢はないと他国が言っているという報道は少なくとも私は見たことがないし、もしそうであるならもっと感染者が少なかった2020年にオリンピックを延期した時点で笑われそうなものだと思うのです。

とやっぱりなんだか誰の言うこともイマイチ信用できんなぁとテレビを眺める私ですが、まぁ今は世界中が経験のない状況にいるのでしょうから、絶対的な正解というのはもう少し先にならないとわからないのでしょう。

 

その点、昨年から煽りすぎだのなんだのと批判が多かったモーニングショー、玉川徹氏は少なくとも一貫しているなと感じます。つまり、PCRを増やせ陽性患者は隔離しろ、陰性の人間で経済を回せです。

もちろん当初は保健所のキャパや検査キャパそれに伴い混乱等を懸念する声があったのも理解できるのですが、もう1年ですよ?準備出来るでしょ?と思うのは素人だからでしょうか?

日本で医療崩壊が起きること自体がおかしいという意見もよく見ますが、今コロナ対応されている医療従事者の方が大変な思いをされていることに嘘はないはずです。

ただ政府・都道府県知事・日本医師会会長の発言や態度を見ていると、医療体制強化のためのこの1年何をしたのか?もしくはどういった対策を試みたがうまくいかなかったのかくらいは説明したらどうなんだ?とも思います。

 

辛坊たまらず路上で呑んで騒いでるような輩は消え去ってもらいたいが、とにかく1日も早く事態が収束に向かいますように・・・

 

 

 

 

嫌われちゃた人

さて、当ブログ 何人の方に見ていただけるものかわかりませんが、障害者というマイノリティ目線のボヤキ・違和感ばかり書いていると思われてもなんなので、今日はもっとくだけたというか三面記事的感想を、、、

 

ここのところまた話題になっている「眞子さま・小室圭」問題。

私もネットやテレビで何となく見聞きする程度だが、違和感を感じるのがこのブログのサブタイトルにもさせていただいている玉川徹さんが異様と言えるほどに小室圭氏を擁護していることだ。

私がテレビで拝見した限り、彼の擁護するポイントだいたい3つかと思う。

1.婚姻は、両性の合意のみに基いて成立と憲法にある。

2.マスコミ・メディアが一方的に小室さんが悪いかのように報道している。

3.弁護士を目指して大変な努力をし、優秀な結果も出している青年。応援すればよいではないか。

 

1.はその通りである。よって秋篠宮殿下も結婚は認めざるを得ないであろうということをおっしゃっている。

2.については一部正しい気もするが、それはそもそも小室氏がこれまで何も言ってこなかったから結果的に一方的になったのでは?とも思う。

3.については大いに疑問だ。「弁護士を目指して大変な努力をし優秀な結果も出している青年」であることは正しいと思うが(これも玉川徹さんいうところの「一方的なメディア」のおかげで私は知っているわけだが)、応援してやるかどうかはそれぞれの勝手である。しかも一方で玉川徹さんは小室圭氏の母親の元婚約者と言われる方について、「人間としてというか男として、僕だったらこんなことないなと。つまりプライドが多分許さないし、これだけを取り出して聞いたら、誰が聞いたってえーって思う話だと思いますよ。」とコメントしている。

同じように世間の反小室派の人も「えーっ」と小室氏に対しておもっているだけだろう。

つまり、単に玉川徹さんは元婚約者が嫌い、世間のメディアとそれを見る割と多くの人は小室圭氏が嫌い、それだけのことだ。

その好き嫌いの多くはなるほどメディアによって生まれたものであろう。でもそれってテレビその他のメディアに登場するすべての人に普通のことでは?

まして皇族の婚姻ともなれば一部税金もかかわってくるわけで、芸能人のニュース以上に好きだ嫌いだ騒ぐ権利は国民にあるはずだ。

それにそもそもご両親が小室圭氏に疑問・不信感を持っているのは明らかなわけで、実際にそういった環境で不幸になるケースを知る人間からすれば「婚姻は両性の合意のみに基いて」などという理屈をふりかざすのは世間知らずもいいところだろう。(両親の反対=すべてが不幸になるというわけではない。)

そもそも疑問に思うのだが、一方的に小室圭氏が悪者かのような報道というが、これ単に金銭問題なわけでこれまで法的に解決、小室圭氏の母親に返済義務がないことを証明する手立てやタイミングはいくらでもあったのでは?と思うのだ。

それについては小室圭氏より最近発表された28枚もの手記(?)に彼なりの理由が書いてあるが、私は正直これほどの騒ぎになっている状況では釈然としない説明に読めた。

当たり前だが事の真相は法的な場なりで決着しない限り外野にはわからない。

元婚約者と呼ばれる人物の言動も疑問に思う点はある。

ただ、やっぱり私も金銭問題の真相はともかく、皇室を巻き込んだこの騒動において、小室圭氏と彼の母親の態度対応は好きになれない。

 

話は違うが、反社会的集団相手の闇営業をきっかけにテレビから姿を消した宮迫という芸人がいる。

私も当時の報道を見てその吉本興業、特に岡本社長の対応には疑問を通り越して憤りすら感じたものだが、現在の宮迫氏を気の毒だとは思わない。それは彼の会見があまりに不誠実でうそっぽく見えたからだ。

闇営業そのものうんぬんではなく宮迫氏は単に多くの人から嫌われたのだ。その証拠に同じ会見に出た田村亮氏のことを悪くいう人を私はメディア・周囲で見ることはない。

 

多目的トイレ不倫でやはりテレビから姿を消した渡部建氏も同様だ。

不倫そのものうんぬんではなく多目的トイレでしかもお金を渡してということに多くの人が嫌悪感を抱いたから、彼はテレビに戻りようがないだけで、不倫そのものは大した問題ではないのだと思う。

ちなみに、よく不倫騒動が起きると「なぜそんな個人的なことを世間に謝罪せねばならないのか?」と小室圭氏の「婚姻は両性の、、」よろしく当たり前の理屈を声高にいう人がいるが、まぁ理屈はおっしゃるとおりだし、世間も謝ってほしいわけではなく単に面白がっているだけだろう。

但し、車イス利用者の私に言わせれば、通常の不倫は奥様にだけ謝罪でよいが、渡部建氏は社会的弱者向け公共の施設を不当に使用したことは世間に謝罪べきだと思う。

 

嫌われる人には嫌われる理由があるもので、あながち不当ではないケースも多いと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉狩り

最近よく見かける「言葉狩り」という言葉。

というかそういった現象が多いからその言葉を目にすることも増えたのだと思うが、確かに、私個人の考え・感覚からも、「やりすぎ」「いきすぎ」「それ必要?」と思えるものが少なくない。

「それはあなたの感覚・センスがおかしいのですよ、意識が低いのですよ」と言われてしまうのかもしれないが、そうつまり「感覚」「センス」の問題なわけだ。

 

例えばまずは自分の関係で言うと、「障害者」という言葉。

最近は「障害者」「障がい者」「障碍者」と3通り見かける。

この議論の本当の発端はよくわからないが、

障がい者制度改革推進会議とやらの『「障害」の表記に関する検討結果について』を見る限り、「害」という漢字に負のイメージがあると批判した障害者団体もしくはその周辺の人物がいたのであろう。

 

正直言って「どうでもいいわ」である。というか「障害者」が妥当であろう。

障碍者」は常用漢字でもないようだし、その読み・意味ともに広く認知されることはなく、しょうがいしゃへの認知・理解をかえって妨げるであろう。

障がい者」はいかにも臭いものにふたをした表現でかえってうさんくさい。

「害」という一文字だけをとりあげて批判するのはナンセンスだし、時間の無駄だ。

そんなこと議論してる暇があったら、スロープのひとつ、障害者用トイレのひとつも増やすことに頭とお金を使っていただきたい。

 

車イススペースの駐車場に健常者が駐車できちゃうとかそっちの方が大問題だ。

こういうのを見るとマイノリティがマイノリティの足を引っ張ることも少なくないなと思う。

 

 

 

 

マイノリティ vs マイノリティ - 名古屋城

ブログ開始を決めたものの一発目書けないまま数日経過。

なかなか習慣化するのは難しそう、、、

 

さて、一発目。最初はまず自身というか障害者が障害者に感じる違和感について書いてみようと思う。

極めて当たり前のことですが、障害者と言っても障害は人それぞれですし、同じケガ・病気を患っても症状・後遺症は千差万別。

そして、人それぞれ考えが違うというのもこれまた障害の有無・程度にかかわらず、至極当たり前のことだ。

「そりゃそうだろう」という話ではあるが、やはりそういうことも自分がなって初めてわかること・感じることも多い。

身体的不自由をもった者同士、共感できる部分もできない部分もあるし、障害者同士で互いの障害の程度による妬み嫉みみたいなものを感じることもある。

 

私が障害者として違和感を感じた例として、最近あまり話題として見かけませんが「名古屋城天守閣の復元計画」へのエレベータ設置の是非問題があります。

 

正直その復元にどこまで史料的・科学/技術的価値・意義があるのかがよくわかりませんが、仮に費用に見合った多大な価値があるのであれば、徹底復元していただき、エレベーターは設置する必要がないと思いますし、障害者の一人として設置を望みません。

理由は単純で「歴史的建造物の再現・復元」が目的であるからです。私のつたない知識でいっても、そもそも城とは入りにくく、登りにくいもののはずです。それを再現するなら障害者どころか健常者であってもお年寄りや体力に自信のない方は軽々と登れないものになるでしょう。

そもそも復元と言ってもきっと今の法律上建築を許されない部分もあるのでは?と想像しますので、そもそも史実に忠実な再現は無理でしょうけれど、仮に特例的に作れたとしても、人が登ってはいけないもの、外から離れて眺めて楽しむものになるのでは?

であれば、エレベーターもいりません。

ただ、復元にそれほどこだわりなく妥協だらけで作る単に観光客集めが第一の目的で、沢山登っていただくこと前提で立て直すのであれば、エレベーターあってもいいんじゃないの?とも思います。

となると、そもそも今のままの名古屋城でよいのではないかという話にもなりますが、要するに「何が目的なのか?」という話だと思うのです。

 

私も障害者であっても見られる・入れる施設が増えることを望みますし、公共施設はもちろんのことオフィスビルや商業施設へのバリアフリー化はもっと徹底して義務化されるべきだと思っていますが、歴史的建造物は別だと思っています。

もちろん歴史的価値・景観を大いに損ねることなく、可能な範囲でそういったものもバリアフリー対策が施されると嬉しいとは思いますが、世の中すべてのものがバリアフリー化されるべきとまでは私は思わないのです。