死刑について (その2)

今日も死刑判決のニュース

妻子6人殺害 被告に死刑判決 - Yahoo!ニュース

 

私が死刑廃止論者の言うことに納得感をもてないことに、弁護人たちの不誠実さ・非常識さがいつも拍車をかける。

当件についても、「事件当時の記憶を失っているため、被告は訴訟能力がないとして公訴棄却を主張」とあるが、いくつかの情報を見る限り、被告人は自首しており、その後手記まで発表している。

もちろん弁護人は仕事としてクライアントの利になるよう最大限働かねばならないことは理解できる。

しかし、そこには客観的・冷静な事実判断・科学的根拠が伴うべきなのはあたりまえだ。

山口光市母子殺人事件で、ドラえもんがどうのと平気でのたまった安田好弘なる弁護士などはそれこそ訴訟能力がないと思える。

 

日本においては死刑廃止論者のほうが賛成者に比較してマイノリティな存在と言えるかと思うが、これもマイノリティ自身がおかしな過度な主張で自分たちの主張を疑わしくし、一層周囲の目を変えてしまっている例だろう。

 

死刑について

私が長年違和感を持っている議論に「死刑廃止論」がある。

私は死刑廃止には賛成できない。

なぜか?死刑廃止論者のいうことに合理的に納得のいく点があまりに少ないからだ。

死刑廃止論者の主な主張は以下のようなものかと思う。

  1. 死刑は,野蛮であり残酷である
  2. 死刑の廃止は国際的潮流である
  3. 死刑は,憲法第36条が絶対的に禁止する「残虐な刑罰」に該当する
  4. 死刑は,一度執行すると取り返しがつかない(冤罪の可能性)
  5. 死刑に犯罪を抑止する効果があるかは疑わしい
  6. 犯人には被害者・遺族に被害弁償をさせ,生涯,罪を償わせるべき
  7. 凶悪な犯罪者であっても更生の可能性はある

1.について、なるほど残酷だとは思うが、それを言うなら牢に閉じ込めることも十分に残酷だ。程度・主観的なことであって死刑だけを廃止する合理性は感じない。

2.について、「国際的潮流」というのは様々な分野で使われる曖昧な言葉だが日本の価値観は日本独自であっても何ら問題はない。国際的潮流に乗らなければならないのは、乗らないことで著しく国益を損なうと想定される場合のみでよいはずだ。死刑存続で著しく国益を損なうことはないので、廃止する合理性は感じない。

3.について、これだけはひっかかる。「残虐」の定義が曖昧なので困るがなんせ命を奪うのだから残虐だと言えるのかもだが、それを言うと1.同様で多くの重罰は残虐なので、死刑だけを廃止議論するのは合理性に欠ける。これが私の解釈だが残というのは方法の話であって、死刑等懲罰そのものを指すものではないと理解する。

4.について、これまた冤罪となれば罰金刑等以外のどのような刑罰も取り返しはつかない。死刑だけを議論するのは合理性に欠ける

5.について、これも同様。すべての刑罰に言えることで死刑だけ議論するのは合理性に欠ける。また少なくとも死刑はその犯人の再犯だけは確実に防げる。

6.について、被害弁償ができるとは限らない、被害弁償もできないのに、生涯にわたって罪を償わせるとはどういうことを言うのか?死刑も生涯にわたって罪を償わせる方法のひとつであり、感情的な意見としか思えない。

7.について、更生しない可能性もある。犯罪によるが日本全体での再犯率はおよそ50%で上昇傾向にあると聞く。また極刑が考えられる犯罪者に更生機会を与えることの妥当性も甚だ疑わしい。これも日本の治安の維持を考えればまったく合理性に欠ける。

 

死刑廃止論者には何一つ合理性のある主張がないと言うのが私の感想だ。

もちろん死刑など行われない世の中が望まれるし、少しでも冤罪の可能性があり得るなら死刑は適用されるべきではなく、慎重な運用が必要なのは当然のことだ。

しかしそのことと極刑としての死刑という制度があるなしとは関係がない。

死刑の代わりに終身刑の導入を主張する人がいるようだが、終身刑もあってよいだろう。しかし、更にその上に死刑という制度があることを否定する理由にはならないと考える。

 

下記のニュースを見て、どの理由で死刑を適用すべきではないと言えるのか?せいぜい感情論と個人の倫理観で1.を唱えるのがやっとではないか?

 【速報】 茨城・日立妻子6人殺害 小松被告に死刑求刑(茨城新聞クロスアイ) - Yahoo!ニュース

 「殺すほうが大事です。そっちのほうが、興奮するから」殺人に快楽を覚える“反社会性パーソナリティ障害”(文春オンライン) - Yahoo!ニュース

ズレている

日々の報道を見聞きして感じることは当然毎日何かしらあるが、これをタイムリーにブログに書くと言うのは日々仕事に追われているとなかなか大変だ、、、

まぁ、自分が勝手に始めたことで、読者もほぼいないので、タイムリーである必要もないのかもだが。。。

さて、以下の問題である。

平井大臣が五輪アプリ再契約交渉の「脅し」発言で釈明、「NECには丁寧に説明する」 | 日経クロステック(xTECH)

田崎史郎氏、平井大臣「完全に干す」発言に「何が問題かまだよく分からない」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース

なぜか2日ももたず話題にならなくなった。まぁ、世間の注目度が低いか、田崎氏同様「何が悪いの?NECがただで良いって言ったんならそれでいいじゃん」と思う人が多いのだろう。

まず私が疑問に思うのは2点

  1. 田崎氏は「NECに直接言ったわけではないのだから問題ない」という発想だが、なるほど担当者はこのままの言葉は使わなかったろうがこの言葉の方針どおりの要求をNECに対して実施したと考えるのが自然であり、つまりそれは取引停止をちらつかせた脅しがあったと考えるのが自然で、それは正当な公正な商取引と言えるのか?という疑問。しかも国家権力がこれを行ったのだ。
  2. 結果的に税金の無駄遣いがなくなったのだからよいというようなことを田崎氏またその他からも見かけるが、それは別の問題ではないか?なるほど使わなくなった機能だから払わないというのは一見正しいが、ではNECはその機能に対して何の投資も労力もかけていなかったのか?いないのであればゼロでも納得できる。少しでも費用が発生していたのであればこれに対価を支払うのが正しい商取引ではないのか?もちろん無償でキャンセル可能な条項が含まれる契約であったのであれば別だが、であれば脅しは必要ないのだからそうではないのであろう。これは正しい商取引なのか?もっと言うとこんなことが通じるということは、当初契約金額も減額した契約金額も妥当なのか?それを判断する能力はそもそも平井や内閣官房情報通信技術総合戦略室とやらのスタッフにはあるのだろうか?という疑問。

私はNECに同情する気もないし、擁護する気もない。

これらの契約が入札だったのか随意だったのか知らないが、要するに脅しに屈する体力のある企業しか国と取引はできないということだ。またその昔富士通による1円入札が問題視されたがあれも同じことだ。未来への投資と言えば聞こえはいいが、そのマイナスはつまり同じ取引相手の別件か、別の取引先の案件で必ず回収される。

世の中そんなものだと言ってしまえばそれまでだ。

それはまったくもって論点がズレていると思う。私のブログのタイミングもズレているけれど。

私は玉川徹さんの意見にまったくもって賛成だ。

玉川徹氏、平井大臣の脅し発言巡り田崎史郎氏と石原良純に疑問「悪くないみたいな感じに聞こえてくる」(スポーツ報知) - Yahoo!ニュース

 

 

 

 

 

 

 

 

議論すべきこと する意味がないこと

ここのところLGBTに関連して感じたことを書いてきたが、私自身はLGBTの方を差別したり非難する意図はないことは明言しておきたい。

まぁ、無意識の偏見がまるでないか?と言われると自分ではないつもりでもあるのかもではあるが。なんせ無意識なので。

「差別はよくない」これに異論のある人はまぁそうそういないであろうが、宗教的もしくは政治的な理由(?)でLGBTの人たちに否定的な方が一定数いるようだが、私には否定するもしないも議論する意味すらないと思える。

なぜなら彼らはそこに実際に存在し、性自認性的指向については他者が強制できるようなことでもなんでもないのだから。

個々人の好き嫌いはお任せするが、認めるも認めないもないし、受け入れるも受け入れないもないではないか。そんなことを言う資格は誰にもないし、議論の無駄だ。

LGBT法案、了承見送り 自民「性自認」などで異論: 日本経済新聞

「自らを女性と主張する男性がスポーツ大会で女性として参加して混乱を招く事態や、差別に関する裁判の増加を懸念する声があった。」と言うがそれは差別うんぬんとは関係ないと思える。

法的なもの含めてルール・運用の整備は個別に議論されるべきことだと思うが、性的指向又は性自認を理由とする差別の解消を謳うことに何をそれほど躊躇するのか?

裁判が増加してもよいではないか、裁判含めて個別のケースは議論判断すればよいのだ。

私は同性婚やパートナーシップ制度にも何の問題があるのかよくわからない。

反対する人たちは何を心配しているのか?

「同性婚を認めても、関係ない人にはただ今まで通りの人生が続くだけ」。賞賛を集めたニュージーランド議員のスピーチ | ハフポスト

 まさにこのとおりで、LGBT以外の人には何の不利益も生まないはずだ。もっと言えばあなたたちが反対したところで同性を愛する人は同性を愛するわけで反対もくそもない。

 

ただ、前述したとおり、私も手洗いの問題やスポーツのエントリー等においては生物的・物理的・法的性が優先されるべきであるとは考えている。それはLGBT以外の人に不利益を生むからだ。そういったことにはどこかで線を引くべきだ。

それも差別だと言うならこの議論は永遠に進まないだろう。

世界中のあらゆる設備・環境がバリアフリー化されなければ障害者差別だ!と裁判するようなものだ。

 

6/14追記

下記の記事にあるアンナ・バンベリンゲン選手の意見はまっとうである。

議論の余地などないと思う。物理的優位性をもって競技をするのはアンフェアだ。

解決するには無差別級のようにジェンダーレスというクラスを作るしかない。

但しそれを作ったところで、男性・元男性の優位は変わらないだろうと思う。

 

6/15 さらに追記

国際オリンピック委員会(IOC)は、トランスジェンダー選手の女子競技参加に関して、男性ホルモンのテストステロン値が12カ月間、一定以下なら認めるとするガイドラインを作っているそうだが、それが体力的な優位性がなくなる基準と言う根拠はあるのか甚だ疑問。

 

トランスジェンダー選手が女子スポーツに出場するのは「悪い冗談」 ライバルの女子選手が批判(ELLEgirl) - Yahoo!ニュース

 

 

 

 

 

余計なひと言

何かを主張・発信するには、思慮と戦法が必要だとごくあたりまえのことを前回書いた。

と言いながら、私自身も余計なひと言や迂闊な言葉選びで失敗することは少なくない。

が、そんな自分を棚に上げるようで恐縮だが、メディアやそのメディアに取り上げられがちな人たちの言葉選び・余計なひと言に呆れ果てることが以前に比べて本当に多くなったように思う。

 

そんなこと挙げたらキリがないのだけれど、昨日見聞きした「余計なひと言」。

「この10万人の声は重い」自民党議員によるLGBT差別発言、撤回と謝罪を求める署名を手渡す(ハフポスト日本版) - Yahoo!ニュース

 

「人間は生物学上、種の保存をしなければならず」これは私も人間に限らず生物は皆そうだと思う。客観的事実だ。

が、「LGBTはそれに背くもの」どうしてこんな余計なこと言うのかね?

これLGBTうんぬんでなくお子さんを持てない・持たない人含めてまるで反社会的と言わんばかり、そりゃ差別発言だと言われて仕方がない。

「体は男だけど自分は女だから女子トイレに入れろとか、アメリカなんかでは女子陸上競技に参加してしまってダーッとメダルを取るとかが、起きている」のは事実で賛否あろう。が、「ばかげたこと」って言うのは余計だ。そりゃ反感も買うだろう。

 

どうして普通に議論できないのか?政治家たるもの言葉選びに慎重になれないものか?

また、当件には当てはまらないようだが、メディアの「言葉の切り取り」もよく問題視される。これについては今日はこれ以上書かないが、もうちょっと知性と公平性をもった言葉選びと報道をお願いしたいものだ。

 

 

 

主張の仕方

前回のブログでは、LGBTの方の訴訟を例に「これはLGBTの方の主張・意見として多く共感が得られるものなのであろうか?」という違和感を書いた。

あたりまえの話だが、LGBTだろうが障害者だろうが外国人だろうが健常者だろうが、何かしらのくくりで人を呼んでも、そのくくりの人たちの意見や考えはそれぞれ千差万別だ。

しかしながら、世の中ついついあるくくりで語られがちだし、そのくくりの人たちにある種の共通点が見られることも少なくないだろうから、偏見や思い込みが生まれるのもある程度はいたしかたない面もあろう。

であるからこそ、特にマイノリティの人たちは一つの言動で余計に偏見を生んでしまうリスクが高いように思うし、前回のブログでもどうなのだろう?と問題提起のつもりで疑問を呈した。

 

さて、「じゃ、障害者はどうなのよ?」と言われそうだなと勝手に思ったので、もう少し古くなったが、先日話題になった伊是名夏子さんという方のブログに批判の声が多く上がった件について、一言私の感想を書いておこうと思う。

 

JRで車いすは乗車拒否されました : コラムニスト伊是名夏子ブログ

 

騒動の詳細はあちこちに書かれているので、あえてここでは書かずにおく。

私の意見は単純。

伊是名さんの嘆き・思いの根幹的な部分には共感できるが、発信の仕方には共感・賛成できないということだ。

嘆き・思いの根幹的な部分というのは、障害者、特に車イスやある種の装置が必要な人間は公共の交通機関や施設すら利用できないことがあり、利用できても多くの時間や手間を要し大変な苦労が多いということへの嘆き、そしてそういうバリアは一日も早く少しずつ減少してほしい!という思いだ。これはまったくもって同意共感できる。

が、それを「乗車拒否だ!」と訴えることには私は共感できない。

事前に調べられることは調べて、乗車30分前には現場で相談して、と出来る手間はきちんとこなされたのもわかるし、ご苦労があったのもわかる。

駅員の対応に疑問を感じる点もあったのかとは思うけれど、結果希望した駅を利用できたのだから、拒否されたと強い言葉で訴えるのではなく、ご自身の苦労を伝えた上で、対応した駅員への感謝の言葉とともに、例えばHP上の駅の情報の充実や障害者への案内の更なる明確化等具体的な提案をすれば、伊是名さんの苦労と主張を否定されるようなことはなかったのでは?と思う次第。

 

何度も言うがマイノリティは我慢するのが当然だなどと言う気はさらさらない。

ただ、なんであれ主張の仕方を間違えるといらぬ偏見や反感を生むのも事実なので、世の中をより多くの人にとって快適にするためには、それなりの思慮と戦法が必要だと思うのだ。

 

でもあらためて言っておく。エレベーター、多目的トイレ、車イス用駐車場等それらの物理的制限・バリアを減らすための公的努力を間違った使い方で台無しにするような輩は私は許さんよ。

 

 

普通とは?私は差別主義者か?

さてさて、ブログをコマメに書くということがなかなか大変とあらためて思い知る今日この頃。書きたいことはたくさんあるのですが、、

 

で、書きたいと思っていたテーマの一つがLGBTとその周辺についてです。

私のブログ読者はまだほぼいない(それでも何十件か見てくださった方がいる痕跡に感謝しております。)ので、炎上しようもないけれど炎上覚悟で書きたいというか知りたいテーマのひとつ。

ただそのテーマに入る前に、まず最初に「普通とは何か?」というよくあるテーマについて確認しておきたい。

私の理解ではシンプルに「普通=マジョリティ」です。単に多数派。

なので、「あなたは普通じゃない」「あなたは異常だ」とかいう言い方をされるとなんか自分がとんでもなく反社会的な人なのかと悪く聞こえていい気分はしないけれど、私は私が身体に障害を抱えていることはマイノリティであり、「普通ではない」「(身体に)異常がある」と自覚しているので、まぁ、それほど腹も立たない。

車イスに乗っている人間なんてお年寄りも含めればマイノリティ、マイノリティと言うほど珍しくもなんともないと思うが、例えば曲がり角やエレベータで車イスに乗った私と出会うと一瞬驚いたような表情をされる方も多いし、何かしてやらんといかんのかな?というようなありがたい困った顔をされる方も多い。で、私はそれはまぁ自然なことだと思う。

店や電車などでいかにも「邪魔だな」と迷惑そうな顔をされたり、不愉快な思いをすることもあるが、その人間が私に何か言ったり、したりしてこない限りは特にこちらから文句を言う気もない。なんせ私は彼らにとって非日常だから、何らかの反応があるのは自然と言えば自然だ。

前置きが長くなった。LGBTとその周辺について、私の不勉強もあると思うが、最近違和感を感じることのひとつは、まるで自分たちがマジョリティであるかのような主張振る舞いが過ぎないだろうかということだ。

誤解しないでもらいたいがマイノリティだから差別されてもしかたないなどマイノリティの私はこれっぽっちも思っていないし、差別には私も断固立ち向かうつもりだ。

今日、常々私がどうなんだろう?と思っていたことがニュースになっていた。

 

性同一性障害職員のトイレ使用訴訟、二審で逆転敗訴 制限の違法性認めず

 

私はこれはいたしかたない判決だと思うのだ。

戸籍上も身体上も男性の人間がご自身の性自認を理由に女性用トイレを使用することはその女性用トイレを使用する戸籍上も身体上も女性つまりマジョリティにある種の苦痛と忍耐を強いることになるわけだ。

もちろんこの性同一障害の方も男性トイレを使用することにある種の苦痛を伴うのでしょう。それは気の毒だとは思う。

しかしながら、これは名古屋城のエレベーターの話でも書いたが、残念ながらマイノリティが受け入れざるを得ない最小限のバリアだと思うのだ。

マイノリティは我慢をすることが当然か?と言われるともちろん誰も何も我慢しないのが理想だが、マジョリティが我慢することもこれまた当然ではないわけだ。

ましてこの記事を見る限り、離れたフロアの女性用トイレの使用は認められているとのことなので、それが妥当かどうか私にはよくわからないが、この職場は誰かが一方的に100%苦痛・不便を強いるようなことにならない配慮もしているわけだ。

 

もちろんこの原告の方の見解がすべてのLGBTの代表的意見というわけはないのだけれど、こういった記事を見るとこれってLGBTの方たちへの偏見等をなくすことにプラスなのだろうか?むしろ逆では?このLGBTの方のことを少々横暴だな、と思う私はやはり「差別主義者」ということになるのだろうか?