コロナ

さてコロナの話

もう多くの人がいろいろなことにうんざりしていることと思う。私もその一人。

私がうんざりしているのは、

  1. とにかく1年以上収束してくれないこの状況にうんざり
  2. 結局何が正解かよくわからないまま繰り返される報道やネット情報にうんざり

が主な点だが少なくない人たちが共感してくださるのではないだろうか。

コロナについてはとにかくその感染病対策の観点と経済活動の維持、この2点で語られるが、それぞれの専門家があれこれコメントされるのは当然のことながら、いずれの専門家とも思えない人まで専門家よろしくあれこれデータを並べコメントされ、私のようにテレビやネットでニュースを見ているだけの非専門家はお腹いっぱい状態ではなかろうか?

私が見る限り最近の変化として、コロナ禍当初よく見られた「コロナはただの風邪程度」「PCR検査を増やすことは避けるべき」というコメントを見かけなくなった。

もちろんそれはあなたが見ているテレビがそういう偏った報道をしているのだというご意見もあろうけれど、私はおそらく大勢の人がそうであるように朝晩にテレビのニュースを見たり、一日に何回かネットの情報をチェックして生活するというおそらく普通の生活をしているつもりなので、そう珍しい存在ではないと思われる。

で、まぁ、とにかくいろんなことをいろんなデータ並べていう人がいるわけです。

数日前も高橋洋一という内閣官房参与の経済学者が日本の現在を「さざなみ」と表現し、「これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイートしたことで炎上していたが、私なんかは素朴な疑問として、そもそも日本は検査率が低いと言われているのに感染者が膨大な国と比較して大きい小さい言うことにどれほどの意味があるのだろう?と疑問に思うし、貴方感染症の専門家ですか?と訊きたくなる。

また、これでオリンピックを中止したら世界に笑われるという意味の主張なのだそうだが、今オリンピックを中止なり延期するという選択肢はないと他国が言っているという報道は少なくとも私は見たことがないし、もしそうであるならもっと感染者が少なかった2020年にオリンピックを延期した時点で笑われそうなものだと思うのです。

とやっぱりなんだか誰の言うこともイマイチ信用できんなぁとテレビを眺める私ですが、まぁ今は世界中が経験のない状況にいるのでしょうから、絶対的な正解というのはもう少し先にならないとわからないのでしょう。

 

その点、昨年から煽りすぎだのなんだのと批判が多かったモーニングショー、玉川徹氏は少なくとも一貫しているなと感じます。つまり、PCRを増やせ陽性患者は隔離しろ、陰性の人間で経済を回せです。

もちろん当初は保健所のキャパや検査キャパそれに伴い混乱等を懸念する声があったのも理解できるのですが、もう1年ですよ?準備出来るでしょ?と思うのは素人だからでしょうか?

日本で医療崩壊が起きること自体がおかしいという意見もよく見ますが、今コロナ対応されている医療従事者の方が大変な思いをされていることに嘘はないはずです。

ただ政府・都道府県知事・日本医師会会長の発言や態度を見ていると、医療体制強化のためのこの1年何をしたのか?もしくはどういった対策を試みたがうまくいかなかったのかくらいは説明したらどうなんだ?とも思います。

 

辛坊たまらず路上で呑んで騒いでるような輩は消え去ってもらいたいが、とにかく1日も早く事態が収束に向かいますように・・・

 

 

 

 

嫌われちゃた人

さて、当ブログ 何人の方に見ていただけるものかわかりませんが、障害者というマイノリティ目線のボヤキ・違和感ばかり書いていると思われてもなんなので、今日はもっとくだけたというか三面記事的感想を、、、

 

ここのところまた話題になっている「眞子さま・小室圭」問題。

私もネットやテレビで何となく見聞きする程度だが、違和感を感じるのがこのブログのサブタイトルにもさせていただいている玉川徹さんが異様と言えるほどに小室圭氏を擁護していることだ。

私がテレビで拝見した限り、彼の擁護するポイントだいたい3つかと思う。

1.婚姻は、両性の合意のみに基いて成立と憲法にある。

2.マスコミ・メディアが一方的に小室さんが悪いかのように報道している。

3.弁護士を目指して大変な努力をし、優秀な結果も出している青年。応援すればよいではないか。

 

1.はその通りである。よって秋篠宮殿下も結婚は認めざるを得ないであろうということをおっしゃっている。

2.については一部正しい気もするが、それはそもそも小室氏がこれまで何も言ってこなかったから結果的に一方的になったのでは?とも思う。

3.については大いに疑問だ。「弁護士を目指して大変な努力をし優秀な結果も出している青年」であることは正しいと思うが(これも玉川徹さんいうところの「一方的なメディア」のおかげで私は知っているわけだが)、応援してやるかどうかはそれぞれの勝手である。しかも一方で玉川徹さんは小室圭氏の母親の元婚約者と言われる方について、「人間としてというか男として、僕だったらこんなことないなと。つまりプライドが多分許さないし、これだけを取り出して聞いたら、誰が聞いたってえーって思う話だと思いますよ。」とコメントしている。

同じように世間の反小室派の人も「えーっ」と小室氏に対しておもっているだけだろう。

つまり、単に玉川徹さんは元婚約者が嫌い、世間のメディアとそれを見る割と多くの人は小室圭氏が嫌い、それだけのことだ。

その好き嫌いの多くはなるほどメディアによって生まれたものであろう。でもそれってテレビその他のメディアに登場するすべての人に普通のことでは?

まして皇族の婚姻ともなれば一部税金もかかわってくるわけで、芸能人のニュース以上に好きだ嫌いだ騒ぐ権利は国民にあるはずだ。

それにそもそもご両親が小室圭氏に疑問・不信感を持っているのは明らかなわけで、実際にそういった環境で不幸になるケースを知る人間からすれば「婚姻は両性の合意のみに基いて」などという理屈をふりかざすのは世間知らずもいいところだろう。(両親の反対=すべてが不幸になるというわけではない。)

そもそも疑問に思うのだが、一方的に小室圭氏が悪者かのような報道というが、これ単に金銭問題なわけでこれまで法的に解決、小室圭氏の母親に返済義務がないことを証明する手立てやタイミングはいくらでもあったのでは?と思うのだ。

それについては小室圭氏より最近発表された28枚もの手記(?)に彼なりの理由が書いてあるが、私は正直これほどの騒ぎになっている状況では釈然としない説明に読めた。

当たり前だが事の真相は法的な場なりで決着しない限り外野にはわからない。

元婚約者と呼ばれる人物の言動も疑問に思う点はある。

ただ、やっぱり私も金銭問題の真相はともかく、皇室を巻き込んだこの騒動において、小室圭氏と彼の母親の態度対応は好きになれない。

 

話は違うが、反社会的集団相手の闇営業をきっかけにテレビから姿を消した宮迫という芸人がいる。

私も当時の報道を見てその吉本興業、特に岡本社長の対応には疑問を通り越して憤りすら感じたものだが、現在の宮迫氏を気の毒だとは思わない。それは彼の会見があまりに不誠実でうそっぽく見えたからだ。

闇営業そのものうんぬんではなく宮迫氏は単に多くの人から嫌われたのだ。その証拠に同じ会見に出た田村亮氏のことを悪くいう人を私はメディア・周囲で見ることはない。

 

多目的トイレ不倫でやはりテレビから姿を消した渡部建氏も同様だ。

不倫そのものうんぬんではなく多目的トイレでしかもお金を渡してということに多くの人が嫌悪感を抱いたから、彼はテレビに戻りようがないだけで、不倫そのものは大した問題ではないのだと思う。

ちなみに、よく不倫騒動が起きると「なぜそんな個人的なことを世間に謝罪せねばならないのか?」と小室圭氏の「婚姻は両性の、、」よろしく当たり前の理屈を声高にいう人がいるが、まぁ理屈はおっしゃるとおりだし、世間も謝ってほしいわけではなく単に面白がっているだけだろう。

但し、車イス利用者の私に言わせれば、通常の不倫は奥様にだけ謝罪でよいが、渡部建氏は社会的弱者向け公共の施設を不当に使用したことは世間に謝罪べきだと思う。

 

嫌われる人には嫌われる理由があるもので、あながち不当ではないケースも多いと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉狩り

最近よく見かける「言葉狩り」という言葉。

というかそういった現象が多いからその言葉を目にすることも増えたのだと思うが、確かに、私個人の考え・感覚からも、「やりすぎ」「いきすぎ」「それ必要?」と思えるものが少なくない。

「それはあなたの感覚・センスがおかしいのですよ、意識が低いのですよ」と言われてしまうのかもしれないが、そうつまり「感覚」「センス」の問題なわけだ。

 

例えばまずは自分の関係で言うと、「障害者」という言葉。

最近は「障害者」「障がい者」「障碍者」と3通り見かける。

この議論の本当の発端はよくわからないが、

障がい者制度改革推進会議とやらの『「障害」の表記に関する検討結果について』を見る限り、「害」という漢字に負のイメージがあると批判した障害者団体もしくはその周辺の人物がいたのであろう。

 

正直言って「どうでもいいわ」である。というか「障害者」が妥当であろう。

障碍者」は常用漢字でもないようだし、その読み・意味ともに広く認知されることはなく、しょうがいしゃへの認知・理解をかえって妨げるであろう。

障がい者」はいかにも臭いものにふたをした表現でかえってうさんくさい。

「害」という一文字だけをとりあげて批判するのはナンセンスだし、時間の無駄だ。

そんなこと議論してる暇があったら、スロープのひとつ、障害者用トイレのひとつも増やすことに頭とお金を使っていただきたい。

 

車イススペースの駐車場に健常者が駐車できちゃうとかそっちの方が大問題だ。

こういうのを見るとマイノリティがマイノリティの足を引っ張ることも少なくないなと思う。

 

 

 

 

マイノリティ vs マイノリティ - 名古屋城

ブログ開始を決めたものの一発目書けないまま数日経過。

なかなか習慣化するのは難しそう、、、

 

さて、一発目。最初はまず自身というか障害者が障害者に感じる違和感について書いてみようと思う。

極めて当たり前のことですが、障害者と言っても障害は人それぞれですし、同じケガ・病気を患っても症状・後遺症は千差万別。

そして、人それぞれ考えが違うというのもこれまた障害の有無・程度にかかわらず、至極当たり前のことだ。

「そりゃそうだろう」という話ではあるが、やはりそういうことも自分がなって初めてわかること・感じることも多い。

身体的不自由をもった者同士、共感できる部分もできない部分もあるし、障害者同士で互いの障害の程度による妬み嫉みみたいなものを感じることもある。

 

私が障害者として違和感を感じた例として、最近あまり話題として見かけませんが「名古屋城天守閣の復元計画」へのエレベータ設置の是非問題があります。

 

正直その復元にどこまで史料的・科学/技術的価値・意義があるのかがよくわかりませんが、仮に費用に見合った多大な価値があるのであれば、徹底復元していただき、エレベーターは設置する必要がないと思いますし、障害者の一人として設置を望みません。

理由は単純で「歴史的建造物の再現・復元」が目的であるからです。私のつたない知識でいっても、そもそも城とは入りにくく、登りにくいもののはずです。それを再現するなら障害者どころか健常者であってもお年寄りや体力に自信のない方は軽々と登れないものになるでしょう。

そもそも復元と言ってもきっと今の法律上建築を許されない部分もあるのでは?と想像しますので、そもそも史実に忠実な再現は無理でしょうけれど、仮に特例的に作れたとしても、人が登ってはいけないもの、外から離れて眺めて楽しむものになるのでは?

であれば、エレベーターもいりません。

ただ、復元にそれほどこだわりなく妥協だらけで作る単に観光客集めが第一の目的で、沢山登っていただくこと前提で立て直すのであれば、エレベーターあってもいいんじゃないの?とも思います。

となると、そもそも今のままの名古屋城でよいのではないかという話にもなりますが、要するに「何が目的なのか?」という話だと思うのです。

 

私も障害者であっても見られる・入れる施設が増えることを望みますし、公共施設はもちろんのことオフィスビルや商業施設へのバリアフリー化はもっと徹底して義務化されるべきだと思っていますが、歴史的建造物は別だと思っています。

もちろん歴史的価値・景観を大いに損ねることなく、可能な範囲でそういったものもバリアフリー対策が施されると嬉しいとは思いますが、世の中すべてのものがバリアフリー化されるべきとまでは私は思わないのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

facebooktwitterではうまく書き込めず、また発信に適さないと思われることを、つらつらと書いてみようとブログを始める。

尚、副タイトル「玉川徹さんと話してみたい」は、毎朝モーニングショーで玉川氏を拝見しており、共感できたりできなかったりが私の朝の始まりなので、副題にさせていただいた。ご本人がこのブログをご覧になることがあるとは思えないが、副題にお名前を書くことが問題あれば(玉川徹さんご本人以外の方でも)ご指摘願いたい。

 

さて、主タイトルをマイノリティリポートとしたのは、私が身体障害者というマイノリティであることと私が世間に違和感を感じることは今や少数派の意見なのかもという想像からであります。

 

さて、そんなマイノリティによるマイノリティかもしれない想いをつらつらと書いてみるのがこのブログ。初めての投稿であるからして、まずは自身のことを少し書こうと思う。

私は50歳代の男性で既婚者、とある企業で働いている。

35歳の時に交通事故で脊髄を損傷し、首から下が不自由な身体障害者となった。

当初の診断では一生寝たきりであると宣告されたこともあり、絶望感に打ちひしがれたが、その後私は不全損傷という状態で、首から下すべて不自由ではあるが一部機能も残っており、家族・医師・療法士・友人のおかげもあって、リハビリの結果、今は車イス等を利用して寝たきりではない生活を送っている。

 

その立場になって初めてわかることが多いのはよくある話で、私も障害者になって初めて知ること感じることは当然ながら多い。

それは障害者/私自身についてもだし、健常者/他者・世間について感じることもだ。

 

どこまで続けられるかもわからないが、50の手習いでやってみよう。